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コラム


『水環境に向き合うために 〜 残酷さとの対峙 〜』

注)この文章は,齋藤が日本水環境学会関東支部の幹事であった時に,リレーエッセイとして執筆したものです。他の幹事のエッセイについては,http://www.jswe-kanto.com/でご覧ください。なお,原文に変換ミスや読みにくい箇所がありましたので,若干修正をしています。


関東支部は,水環境健全性指標の試行調査に協力している。この指標を用いた調査には,環境教育としての効果も期待されているが,私にはどうもしっくり来ない。少なくとも私が水環境に携わるようになったきっかけは,決してきれいごとで片付けられるような自然との関わりではなく,むしろ人に語るにはあまりにも痛々しい残酷な自分との対峙であった。そんな自分も今では,ふとしたはずみで草木を折ってしまった時,「痛かったろう,ごめんね。」とつぶやくことがある。アニミズムに近いこの種の感覚を,いつの頃からか私は少なからず持っている。それが水環境に携わる理由の一つに違いないが,その感覚は生来持っていたものではなく,幼い頃の経験に基づいているように思えてならない。

少年は学校から帰ると母親の目を盗んで裁縫道具を取り出し,丈夫そうな一巻きの糸をポケットに入れると,家から10分程の沼に向かった。友人たちは少年の登場を待ちきれずに背丈程もある草を抜き,枝を払って釣り竿を作り上げていた。少年が糸を持ってくると,一人が蛙を捕まえ,地面に叩き付けてその足に糸を巻きつけ,反対側の一端を釣り竿の先端に結わえる。意識を失った蛙を池に投げ込むと,しばらくして糸を引っ張る気配を感じ,その直感に任せてゆっくり引き上げると,大きなアメリカザリガニが釣れる。釣り上げられた初めのザリガニは次の釣りの餌になる。釣り竿を片手に待ち受けていた別の少年が頭部と胴体に二分し,糸にくくりつけて次の釣りが始まる。叩き付けられた蛙の痛みも,二分されたザリガニの痛ましい運命にも思いは至らず,釣り上げる時の何とも言えない高揚感に,時を忘れて釣りを続けた。

少年は釣り上げたザリガニを幾度か家に持って帰ったことがある。かろうじて体の向きを変えられる程度の狭苦しい水槽に入れ,パンや米粒を与える。学校に行っている間におなかが空かないように,食べ切れない量の餌を水の中に入れる。毎日新鮮な餌を次々に与えるが,やがて異臭を放って皆死んでいた。生き物を飼うことが,命を預かることであるという本質を理解できず,理不尽に命を絶つことの無情さに思いが至らず,今になって思えば,ただ無邪気に生命を弄んでいたと言える。

少年はある時,背丈ほどの草むらに潜り込むと幾匹ものカマキリを捕まえた。虫かごに入れると,それからの楽しみはコオロギを捕まえて手足をもぎ、カマキリに与えることになった。手足をもがれ,だるまになったコオロギの体をカマキリに与えると,さもおいしそうに口を動かして平らげた。少年は、時を忘れてカマキリの口元を真剣な眼差しで眺めていた。少年の心を支配していたのは,両手の鎌を器用に使って獲物を口まで運んでは咀嚼するカマキリの精巧な機械のような動きであり,理不尽にも失われたコオロギの命に思いを馳せることはなかった。

ある時捕まえたのはお腹の大きなカマキリであった。少年の興味にあったのは,やがて生まれ来る無数の愛らしい子どもたちではなく,その体をしてカマキリは飛びうるのか,どれほど飛びうるかに向けられていた。少年はおもむろにカマキリを摘み上げると空に向けて放り投げた。必死に羽ばたくカマキリの努力は,次代を担うべく育まれた生命の重さには遠く及ばず,やがて不恰好に落ちていった。

人は,命の尊さや痛みの感覚をいつどのようにして身につけるのだろうか?生きとし生けるものに命が宿っていることを知り,無用な殺生に心を痛め,共に生きてゆきたいと感じる心は,いったいどのようにして獲得できるのか?私の場合,無数の殺生の経験が,非業の死を与えることの罪深さを実感させている。水環境と向き合う私の原点とも言える。この経験が万人に当てはまるとも思われないが,少なくとも,無邪気な残酷さを自ら経験した人間にとっては,その後の人生において,自然の痛みを感じるきっかけになるのではないかと考えている。

さて,周りを見渡してみると,子どもたちが対峙できる自然は姿を消し,社会的には,子どもの無邪気な残酷さを押さえ込む風潮がある。命の尊さや痛みの感覚を育む機会が失われているように感じられてならない。きれいごとではない生命の残酷さ,無邪気さ故の残酷さを理解した上で,人と自然との共生のあり方を考える必要があるのではないか。水環境健全性指標を環境教育に利用しようと考える際に物足りなく感じられるのは,そんな視点なのかも知れない。